アラフォー女バックパッカーの無敵の旅の話

働きながら、少ない給料と有給休暇をフルに使って旅をしてきた勝手気ままな女が、陸マイラーという概念に出会った物語(現在進行中)。旅の話や旅で撮った写真もはさみつつ。

【台風直撃の第1回フジロックフェスティバル】天神山での嵐の夜の思い出

明日からフジロック参戦です。今年は台風も久しぶりにフジロックに参戦する気配。ちょっとワクワクしつつ、「惨劇」「地獄」と言われ伝説になっている第1回のフジロックの思い出を書くことにしました。

1997年の富士天神山スキー場

今や日本を代表するフジロックフェスティバルですが、フジとついてるのになぜ新潟?富士山はどこ?など言われがちですが、20年前の夏、第1回のフジロックはちゃんと富士山の見える地で行われたのでした。

いや、厳密に言うと富士山は見えませんでしたが。なぜかと言うと記録的な台風が直撃したためです。

うっすら記憶にあるのは、帰るときに、河口湖の駅のホームの手洗い場で、泥に汚れたサンダルを洗いながら、どでかい富士山が見えたこと。その時に、

ああ、フジ(富士)ロックだったんだなと思った覚えがあります。

今は新潟の苗場スキー場で行われているフジロックですが、「フジロック」と言うとき、1997年に参戦した人たちは、ちゃんと、富士山が頭に浮かんでるはずです。それ以外に恐ろしい光景も浮かんでくるはずですが…。

20年前どうやって辿り着いたか

1997年、20歳だった私は、友と2人で参戦することにし、ワクワクしていました。今と違ってインターネットも庶民の間には普及していませんでした。フジロックフェスティバルというものが開催されるということは、ロッキンオンとかの当時読んでいた音楽雑誌で知ったような気がします。チケットはチケットぴあに並ぶという手段が私たちの中の主流だったので(電話がなかなか繋がらない)、心斎橋のチケットぴあに前夜から友達と並んでとった覚えがあります。

20歳の私たちは、徹夜で並ぶというのも1つのイベント。酔っ払いのおっさんに絡まれながら一晩過ごしチケットを手に入れました。まあ、並ばなくでも普通に買えたチケットでしたが。

貧乏学生だった私たちは、青春18きっぷで大阪から河口湖まで向かいました。スマホなど、もちろんなかったので、本屋で太い時刻表を立ち読みして乗り継ぎ方を頭に叩き込んで、メモを持って在来線で向かいました。同じようなフジロッカーが18きっぷで関西から電車に乗り込んでおり、気分も盛り上がりました。河口湖の駅からは多分シャトルバスか何かに乗って会場の天神山スキー場に向かったと思うのですが記憶がありません。ただ、会場までの道の途中の、森のような道の両脇で野宿をするグループが何人もいたことだけ覚えています。

天神山スキー場に雨とともに到着

会場に着いたのはもう夜でした。前日に乗り込んできた私たち。気づいたら雨が降り続いていました。

97年当時、野外フェスなど日本にはなく、ウッドストックやグラストンベリーのフェスを雑誌で見て、異国のものだと憧れていた程度。関西でFM802が今も夏に行なっているミートザワールドビートという野外フェスはやっていたものの、都会の中の万博公園の芝生広場でしていて1日で終わるお祭りイベント。片田舎の山奥のスキー場で2日間に渡って行われる日本初とも言えるフェスとは訳が違います。そのことをしっかり分かっていなかった人が、私を含め3万人いたと言ってもいいでしょう。私と友は、そこらへんのライブハウスでライブを見る感覚で臨んでいました。

これが大きな間違いの始まりです。

ガールスカウト出身の友の助言通り、とりあえず寝袋とカッパは持ってきていたので、かろうじて眠れるなと思っていました。

寝床は、当時のメインステージ前のオーディエンスがモッシュを繰り広げるスペースです。

屋根はありません。

テントも持ってきていません。

雨の中とりあえず寝袋に入ったものの、顔のところから雨が入り込み、

「顔面に雨が直撃やー!」

「雨が寝袋の中に溜まるー!」

大笑いしながら寝る体勢に。

思えばまだまだ体力のある20歳のフェスデビュー前夜でした。

途中、友のPHS(時代です)が鳴り、大阪の別のライブ友達が2人来ていて、その2人はちゃんと旅館に泊まるとのこと。私たちがメインステージ前のスペースで寝袋だけで大雨の中、夜を越すと聞いて心配していました。私たち以外にも、ニルヴァーナやハイスタを爆音で流しながら盛り上がっている野宿組がいたので、安心して台風直撃を外で出迎えました。

 

今振り返れば、その後、私の人生は、バックパッカーとして花開くのですが、台風の中、屋根のないところで雨を顔面に浴びながら寝たのは、後にも先にも天神山スキー場だけ。

あの夜を思い出せば、たいていの安宿も快適に思えるのでした。

初の野外ロックフェスで嵐の洗礼!

寝たのか寝てないのか分からないような状態で寒さの中目覚め、フジロックが始まりました。

そもそも、この年のラインナップは恐るべしメンツです。

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ザ・ハイロウズ

ザ・イエローモンキー

フーファイターズ

ATARI TEENAGE RIOT

電気グルーヴ

Rage Against The Machine 

Red Hot Chili Peppers 

などなど。

「全部見たい!大好きだー!」

と叫びたい気持ちで参戦。 

ハイロウズでヒロトくんがパンツを脱いだり、フーファイターズで初の生デイヴ・グロールを見てカート・コヴァーンを想ったり、

レイジで「フリーダム!!」と叫ぶトムモレロのシャウトに、心の底から私たちも自由を謳歌していると感じたりしました。

土砂降りの暴風雨で安物のカッパも意味をなさず、タワレコやスペースシャワーTVのビニール袋を被ったりしながら、ずぶ濡れで興奮し続けていた私たちですが、レイジが終わってからのイエローモンキー待ちの時間から少しずつ恐怖が始まります。

私たちは最前列にいたのですが、大雨の中、じっと待つうちに寒さで震えがきました。イエモンファンが押し寄せ、どんどん潰されます。

今から数年前にサマソニにミスチルが出た時に「ミスチル地蔵」という言葉が生まれました。ミスチルを前列で見るために地蔵のようにミスチルファンが並び、他のアーティストの演奏中も、動かずにじっと耐え忍ぶお地蔵さんのような集団が前列を占める現象です。97年のフジロックでも、すでに「イエモン地蔵」が前列に生息していました。

レイジとレッチリに挟まれたイエモン。

レイジとレッチリで暴れまくりたいロックファンに挟まれたイエモンファン。

イエローモンキーが登場してから壊れました。

「なんでそんなマイナーなアルバム曲を並べたセットリストで攻めるんや!LOVE LOVE SHOWみたいなヒットチューンやれよ」とイエモンだけが目当てだったイエモン地蔵ですら思ったはず。気合いが入りすぎたイエローモンキーが空回りをしているのを見てしまいました。

豪雨の中、友は将棋倒しに近い形で潰れ、演奏中断。何とか手を引っ張り、最前列の軍人上がりの屈強な黒人のセキュリティーに引っ張り上げられてエビゾリにされたまま、吉井和哉の前を横切り救護室に消えて行きました。

 

後に、吉井和哉氏も、イエローモンキーの解散の大きな原因として、フジロックでの挫折(外タレとの圧倒的な演奏の差や、フェスでのプレッシャーなど)から立ち直れなかったことを挙げています。私の中でもイエローモンキーへの熱が冷めた契機となりました。

 

イエモン地蔵が一斉に去った後、私は気を取り直して

「お願い!レッチリをこの目で見させて!」という気持ちが湧いてきます。いつ中止になってもおかしくないような暴風雨です。とりあえず、私も軍人上がりのセキュリティーに引っ張り上げてもらい、救護室に消えた友を探しに行きました。密集ゾーンから出て改めてずぶ濡れで泥だらけの自分に気づき、寒さが勢いを増して襲ってきました。

救護室前に、毛布にくるまって立っていた友を見つけ、毛布にくるまりながら、レッチリの演奏を見ました。生まれて初めて目にしたレッドホットチリペッパーズは、恐ろしいくらいに迫力がありました。

腕にギプスをしたまま現れたアンソニーくん。(私たちは親しみを込めてアンソニーくんと呼んでいました)

アンソニーくんのロン毛が暴風雨でぶわーっとなびき、フリーのベースも地の底から響いていて、神々しさすらありました。

特に今でも覚えているのは「Give it away」のリピート。20年経った今も耳に残っています。

その後、サマソニやフジロックで何度かレッチリのライブを見る機会はありましたが、あんなにも迫力、殺気すら感じたパフォーマンスは見たことがありません。もちろん他のアーティストでも。台風がいよいよヤバくなり、短い時間でレッチリのアクトが終わってしまいました。

終演後、遭難者となる。

ボロボロになった私たちは、早々に帰ることにして、シャトルバス乗り場に向かいました。

帰ると言っても夜も深まり、今思えばどうするつもりやったのか記憶にないのですが、

とにかく天神山から一刻も早く出て行かないと命に関わる…それくらいの切迫感すら感じていました。シャトルバスに乗ったところで、もう夜も遅いのにどうするつもりやったんかな…。

逃げるように暴風雨の中シャトルバス乗り場に行くと、別の惨劇が繰り広げられていました。ゾンビ映画を見るたび思い出す光景です。

シャトルバスの周りに物凄い人・人・人。バスを叩いて

「乗せろやー!」「こらー!!」と怒鳴る人々。こういう時に怒鳴っているのは大概関西弁。バスの外からバスを叩く人々。乗っている人や運転手も恐怖感でいっぱいだったでしょうが、バスに乗れない女の子たちは泣き叫んでいました。

こういうのを暴動と呼ぶんだろうなと思い、私たちは恐ろしくなり、

「こんな騒動の中にいてもバスに乗れるはずがない」

「バスに乗っても無事に河口湖駅までつけるとは思えない」

「死者がでる」

「怖い」

そんな恐怖を感じ、結局会場に戻りました。

主催者のSMASHの日高さん(大将)のところへ行き、遭難者のようなずぶ濡れの帰宅困難者に、寝床として山小屋?ゲストハウス?を空けてもらいました。中は本当に避難所。ずぶ濡れで震えている人々だらけ。私たちも毛布を配給してもらい、スタッフ用のTシャツまでいただき、着替えて、階段の所に一段ずつ2人で横になり寝ることになりました。階段で多くの人が横になっているところを、電気グルーヴのピエール瀧氏が心配そうな顔をして階段を降りて行きました。前の晩と違って屋内で毛布も貰えて熟睡できました。この時の赤っぽい毛布の柄を今でも覚えています。

翌朝、晴天の中、中止のアナウンス

朝目覚めて外に出てみると、嘘みたいな晴天。気持ちの良い夏の朝でした。信じられないくらい晴れているのに、主催者側の判断は2日目中止。

そりゃそうか。

昨日はステージの機材もグラグラして怖かったし、よく感電しなかったもんだと言いながら、友とメインステージまで散歩してみると、惨劇の後のひどい状況。靴やカッパ、ビニール袋、カバンなど置き去りにされたゴミがそこら中に泥だらけで埋め尽くされていました。

何とも言えない気持ちになり、スタッフTシャツを着た私たちはゆっくりと会場を後にしました。河口湖駅から再び18きっぷで大阪へ帰って行く私たち。

友のA.P.Cのおろし立てのGパンもぐちゃぐちゃ。

私のサンダルのストラップはちぎれてビニール紐で足にくくりつけ、財布の中のお札は全てふやけてしまってまるで洗濯機に入れた紙切れのよう。

命からがらフジロックに参加した私たちは、サバイバーとしての勲章を胸に、互いに何年も語り継ぐことになりました。

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思えば「写ルンです」で撮っていた時代。また流行ってるらしいですが。これはクロスビートか何かの雑誌に載った翌朝のスタッフTを着た私たち。

 

97年フジロックの反省を踏まえ

今思えば、ど素人です。

フェス参加にしても、アウトドアにしても。まず、テント無しで寝袋だけで大雨の中外で寝るなんて論外です。フェス元年だったので、何も分からなかったということもあります。ロックファンにアウトドアの知識が足りなかったということもあるかもしれません。

今や、夏フェスは乱立し、山ガールやキャンプ、アウトドアファッションもトレンドに上がり、情報収集もスマホで楽勝な時代。フェス主催側も年々快適にバージョンアップしてくれています。参加者のエコの意識も高まり、ゴミの仕分けも徹底しつつある変わりよう。

バックパッカーとしての心構えも、97年のフジロックでの悪夢から学んだことがベースにあります。厚底サンダルや高いGパン、安物のカッパで未開の地に乗り込むことはもうしません。

寝るときは雨をしのげることを最優先事項にしています。山の中は真夏でも寒くて震えることがあるということも覚えています。もう二度と同じ過ちはおかしません。

そうは言っても、20歳の若さで乗り切れたあの伝説のフジロックデビュー日の嵐の夜のことは、楽しい、最高の思い出。

私たちの最大の武勇伝。

くるりがまだ学生の時に京都から参戦したとか、栗沢類がベビーカーで参戦したとか言われている伝説の97年のフジロック。何故か仲間意識が芽生えます。

まさか、あのフェスが21回も続くとは思わなかったけど、

まさか、あの時の相棒がこの世を去っているとは思わなかったけど、

フジロックが続いていってくれる限り、私たちの武勇伝は毎年夏、キラキラと輝きます。

いつまでもフジロックが続きますように。(日高さんよろしく)

歳をとっても、音楽を楽しめる自分でいられますように。

今年、40歳の夏、準備万端で苗場スキー場のフジロックに臨みます。

今年も楽しめますように。

 

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フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー 『中編:あのときフジロックで起きたこと』 | 富士祭電子瓦版 - FUJI ROCK FESTIVAL ELECTRONIC NEWS

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